989号 労働判例 「技術翻訳事件」
(東京地裁 平成23年5月17日 判決)
就業規則の変更に基づかずに行われた賃金の減額について労働者の承諾が認められなかった事例
賃金の減額と労働者の承諾
解 説
〈事実の概要〉
本件は、翻訳業を主たる業務とするY社(被告、従業員11名)に採用され、制作部で翻訳物の手配、編集等を行っていたX(原告、Y社での地位は制作部の最高責任者である制作部次長)が、平成21年9月末で退職した後、Y社に対して、@平成21年6月以降の賃金減額は無効であるとして、減額分の賃金支払い、A退職は会社都合であるとして、自己都合退職金との差額の支払い、B管理監督者ではなかったのに管理監督者として扱われ、時間外割増賃金が支払われていないとしてその分の割増賃金の支払いおよび同額の付加金等を求めたものである。
争点は、多岐にわたるが、ここでは上記の@からBについてみていくことにする。
Y社では、会社の業績悪化を理由に、Y社の役職者全員を対象として、平成21年6月以降の報酬ないし賃金を20%減額することを、Y社の役職者全員(会長、社長、経理部長、営業部長、制作部次長)で構成される代表者会等に提案し、実際にXの賃金は、同月以降、20%減額された。本件賃金減額については、就業規則または給与規程の改定が行われた事実はない。この賃金減額について、Yの主張は次のとおりである。すなわち、Yの賃金減額提案について、Xは当初反対の意向を示していたが、乙山会長の懇請により了承したものであると。これに対して、Xは、本件賃金減額を了承した事実はなく、明確に異議を述べていた、仮にそうでないとしても、本件賃金減額については、文書による同意を得る努力もされておらず、減額しなければならない合理的な理由もなく、YからXに対する十分な具体的な説明もないことからすれば、Xが本件賃金減額を黙示的にであれ同意したとは認めることはできないと主張していた。
〈判決の要旨〉
裁判所は、@について次のように判示する。賃金は、雇用契約の最も重要な要素であるが、使用者の労働条件明示義務(労基法15条)および、労働契約の内容の理解促進の責務(労働契約法4条)があることを勘案すれば、いったん成立した労働契約について事後的に個別の合意によって賃金を減額しようとする場合においても、使用者は、労働者に対して、賃金減額の理由等を十分に説明し、対象となる労働者の理解を得るように努めた上で、合意された内容をできる限り書面化しておくことが望ましい。加えて、就業規則に基づかない賃金減額に対する労働者の承諾の意思表示は、賃金債権の放棄と同視すべきものであることからすれば、労基法24条1項本文に定める賃金全額払いの原則との関係からも、慎重な判断が求められるというべきであり、本件のように賃金減額について労働者の明示的な承諾がない場合においては、書面等による明示的な承諾の事実がなくとも黙示の承諾があったと認め得るだけの積極的な事情として、使用者が労働者に対して書面等による明示的な承諾を求めなかったことについての合理的な理由の存在等が求められるというべきである、と。そして、本件では、そうした合理的な理由の存在等はなかったとされ、単にXが代表者会から退席しなかったという事実をもってXとの間に賃金減額にかかる確定的な合意が成立したとは言えないとした。また、本件賃金減額の実施から本件退職までの間が3か月余りにすぎないことからして、Xが、その間、本件賃金減額による減額後の賃金を受領し、Yに対して抗議等を行っていないとしても、他に特段の事情の認められない本件においては、本件賃金減額に対して事後的な追認がされたと認めることはできないとし、本件賃金減額を有効であると認めることはできないと結論づけた。
なお、Aについては、会社都合の退職とは、使用者側の発案に基づく退職を意味するものであり、本件のXの退職は、X自身の意思に基づく退職であり、会社都合の退職とはいえないとした。また、Xは、Yから労働時間管理を受けていたものであり(出退勤についてタイムカードを打刻するものとされていた)、Xに支給されていた役職手当の額は、時間外手当の支給を受けない管理監督者に対する処遇としては十分なものとは到底認めがたいとして、管理監督者ではなかったと認め、未払い時間外手当として256万円余を認め、さらにそそれと同額の付加金の支払いを命じている。
賃金減額を行う場合に留意すべき論点を指摘する重要な判例である。
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